映画「オデッセイ」評

世間でやたらと評判のよい「オデッセイ」だけど、なんだか「そこまでかなぁ」感がするので、やっぱり書いておく。本当はアカデミー賞発表の前に書いておきたかったけど、どうしても今日までに仕上げなければならない仕事が今日までかかってしまったので、この時間になってようやく書いた次第。
【重要な注意】「オデッセイ」のネタバレあり。かつ「オデッセイ」以外の映画についても軽く【ネタバレ】がある。ご了承のほど。

アカデミー賞

作品賞に“ノミネート”されるのはいいけど、受賞はしないだろうというか、したら嫌だなと思っていた。他にいい作品があるからというわけじゃなく、私の好きなアポロ13」「ゼロ・グラビティ」を超えていないと思っていたからだ。どちらも作品賞にノミネートされたが受賞は逃した。受賞を逃して安堵したというわけでもないが、やはりこの手の作品は受賞できないんだな、という印象はある。

フィクションとリアリティ

アポロ13」は事実に基づいてドラマティックに修正した話だが、「ゼロ・グラビティ」はフィクションだ。フィクションだけれど、オカルトな話ではないので、物理現象や現実の設定を(原則的には)曲げているわけではない。もっとも「ゼロ・グラビティ」を見ているときには気付かなかった現実の宇宙活動との違いが、専門家によって解説されている

一般論として“現実離れした設定”は作品に感情移入する邪魔になるものだ。オカルト映画でもないのに超能力のようなエピソードが出てきたら「そんなわけないじゃん」って思うだろう。だが、そういうエピソードはけっこうあるものだ。IT業界の関係者にとっては「映画の中のコンピューター」というだけでお腹いっぱいになるネタがある。「ミッション・インポッシブル」や「007」のような“空想科学”の域にあるものはそれでいいが、あれがリアルな社会を描いている映画に出てきたらツッコみたくなるだろう。

その意味では、「ガールズ&パンツァー」は相当おかしな設定を持ち込んだ作品だ。テレビシリーズの序盤は、色々ツッコミながら見ていたのを思い出す。だが、そのおかしな設定を乗り越えるストーリーと映像、そして何より勢いがあった。だから、劇場版は純粋に楽しい作品だった。もし、普通の人がいきなり劇場版を見ても“おかしな設定”という印象から抜け出せないのではないだろうか。劇場版の冒頭に数分のダイジェストが流れるが、あれだけで受け入れられる気がしない。まず、テレビシリーズを見てほしいと思うのは、そのためだ。

しばらく前に、映画「セッション」が専門家の菊地成孔氏から酷評されていた。専門家から見れば、物語の核となる部分が“ありえない設定”ということなのだと思う。すぐれた音楽学校で、著名な音楽指導者が“あんな風”なわけがないし、ジャズに求められる演奏が“あんな風”なわけがない。そういうありえない設定に基づいた酷い映画ということだと思う。でも、私は専門家じゃないから、そこまで気になることはなかったし、良い作品だと思った。

その「セッション」を抑えて、昨年のアカデミー作品賞を受賞した映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」は、ほぼ全編がワンカットという大胆な映像作品だ。もともとワンカットで作られた映像は好きで、音楽のプロモーションビデオでも「DOWN ON THE STREET」(SHAKATAK)、「Virtual Insanity」(Jamiroquai)、「Sweetest Thing」(U2)あたりは好きな作品だ。「バードマン」は実際にワンカットで撮影しているわけじゃなく、つないでワンカットに見せているのだが、その“つなぎ”が気になってしまう。不自然に背中をまわったり、壁を映したりしてると、「ああ、ここでつないでいるのか」と思って、感情移入が妨げられてしまうのだ。でも、そういうことが気にならない人には邪魔になることもないのだろうし、大半はそういう人なのだろう(だから作品賞を取ったのだろうしね)。ちなみに、本当にワンカットで撮影された長編作品に「大空港2013」(WOWOWで放送された三谷幸喜作品)があり、これはストーリーも含め良い作品だった。

結局、どんな描写がリアリティに欠けるとか、気にならないということは、人によるのだと思う。映画評論家ならば、それをすべて客観的に評価できないといけないのだろうが、幸いそういう職業ではない:-)

「オデッセイ」

また前振り長くなったが、「オデッセイ」は私には色んな意味で“邪魔が入った”作品だった。

公開後にさんざん「火星DASH村」と言われていたので、結局どうしようもなかったと思うが、映画館で見た予告編でまさに「DASH村」のシーンを見てしまったのは残念だった。これが、この映画の一番面白いところだったんじゃないだろうか。ものすごくネタバレされた気分だった。

そもそも予告編では「食料31日分」と言っていたが、映画の中では「68日分の食料が6人分」と言っていたように思う(このあたりは、原作を読めばハッキリするのだろうが、手を出していない)。だから4年後の火星探査まであと3年分の食料が必要、ということになってジャガイモを栽培し始めるのだが、結局、ジャガイモを栽培するだけで食糧問題が解決してしまう。いや、それじゃ栄養素が足りないだろと思うのだが、イモだけで1年間暮らそうとしている人がいるというニュースがあったので(それでも塩くらいは使っているようだ)、まあヨシとしよう。でも、たかが31日間の調査にある感謝祭のために未加熱のジャガイモを持っていったりするだろうか(持っていかないと話終わっちゃうだろ、ということではあるが)。

冒頭、火星に嵐が起きるほどの大気はないだろう、というのは原作から突っ込まれていたと wikipedia に書かれていた。これも、嵐が起きないと物語が始まらないのでしょうがない。では、大気はどれくらいあるという設定なのだろう。鋼鉄製ではなかったが、一応、あのハブ(居住区)は二重扉になっていて大気が安定してから中に入るようになっていた。だから、居住のための大気とは、それなりに気圧が違っているはずだ。ちょっとの破損から爆裂してしまったのも、そのためだ。

ところが、その破損をビニールかぶせてガムテープで貼り付けて修理してしまった。しかも、宇宙服なしで過ごせる程度にまで修理できている。そして、覆ったビニールは風が吹くとへこんだり、ふくらんだりしている。気圧そんなに高いの? さらにバクテリアが死んだと言っていたが、凍って死ぬのか? そもそも最初にクソを運ぶときには“ハブの外”で箱を入れ替えていたじゃないか(※追記参照)。あの場所は寒くなかったのか? だいたい、あの環境で種イモを一個も冷蔵庫にしまっておかないとか、ポジティブシンキングというレベルじゃないくらい能天気すぎる。ちょっと「ないだろ」と思った部分だ。

また、地球から火星に向かったり、火星から地球に向かうにはホーマン軌道を使っている。ホーマン軌道とはエネルギー効率が少ない移動方法で、この軌道で地球と火星を移動すると8カ月程度かかるから、このあたりの設定は問題ない。しかし、ホーマン軌道で移動できるタイミングは2年2カ月ごとにしかない。火星探査が(約)4年ごとというのは妥当な設定だが、“戻るタイミング”も決まっているので「火星に到着して31日間過ごして戻る」というのはおかしいのだ。検索すると火星で1年2カ月ほど過ごさないといけないという情報がある。

帰りはホーマン軌道に頼らず無理やり31日間だけで戻ってくる、ということでもいいが、結局往復533日かかるという設定になっているので、わざわざ効率が悪い戻り方をすることになる。しかも、533日で戻ってくるなら、次のホーマン軌道の時期には、とっくに宇宙船が地球に帰ってきてるはずだ。NASA長官は、「来年の“ホーマン軌道”の時期に支援ロケットを打ち上げる」と言っていたぞ。あと、これは“字幕”の問題かもしれないが、この発言は火星滞在から4カ月くらい過ぎた頃のはずで、感謝祭が11月第4木曜日だとすると、“来年”はおかしい気がする(このあたりも、原作を読めばわかるのかもしれない)。

同じように、地球に戻ってきた宇宙船が回れ右(スイングバイ)して、火星へのホーマン軌道に乗れるわけじゃない。ホーマン軌道を無視して(スイングバイで加速して?)飛んでいくならわかるが、それなら日数は「533日間」とはずいぶん変わるのではないか。いや、そもそも、スーパーコンピュータ使ってた人、「いつ飛んでもかかる日数は同じで414日」とか言っていた気がするが、そんなわけないよね? 原作の問題なのか、字幕の問題なのか、わからないけれど。

そして、回れ右して救出させようと提案するときに「火星からの脱出にはMAVを使う」というだけで話を進めていて、高度が足りないことに気付いてないスーパーコンピューター使っていたんだし、5人を失うかもしれないプロジェクトなんだから、それくらい回れ右する“前”に計算して把握しておくべきだったんじゃないか?

そして最後の最後で、宇宙服に穴をあけて空気が噴出する勢いで脱出する。いや、空気の重さがどれだけあるんだよ。それで助かるならジョージ・クルーニーは生還してるぞ。さらに、細かいことを言えば、宇宙船もハブも大きすぎるというか(ハブは大きくないと植物を栽培できないからしかたないが)、16進は効率が悪いので8進の方がいいというのもある。

もう一つとても気になったのが、「70億人が帰りを待っている」というキャッチコピーにもある設定だ。いや、火星探査にどれだけお金をつぎ込んでいて、どれだけ世界平和が実現しているのかわからないが、それなりに調査意義があるから莫大な資金を投じてるはずで、火星で一人が遭難したくらいで、その救出のために巨額の公費が投じられるというのは、ちょっと信じられない。事故が起きた後に、なんとしてでも生きようとする“当人”が別の宇宙船のロケットを拝借する、というのとは違う。そもそも、それを決めるのは議会とか大統領であって、NASAの長官じゃないよね。これも言い出したら、話が進まなくなっちゃうけど。

別にそこまで酷い作品と思ったわけじゃないが、なまじNASA全面協力」とか聞いてしまっていたので、いや、それないだろ、とツッコみながら見ることになってしまった。もちろん良いところもあって、リドリー・スコット作品“なのに”「状況を悪化させるためだけに存在するバカな宇宙飛行士」がいなかった。あと、パスファインダーの登場はよかったね。

※2016/3/10追記。

朝日新聞の「天声人語(3/6付)」にバクテリアに関する原作の描写について書かれていた。

居住施設に火星の「死んだ土」を敷き詰め、実験用に持参した地球の土を少しだけふりかける。生きた土に暮らす微生物たちが、作物には必要なのだ。彼は呼びかける。「バクテリアよ、仕事の時間だ。期待してるからな」(小野田和子訳)

もともと火星の土は“死んで”いるので、地球から持ってきた“生きた”土をふりかけたということらしい。バクテリアは“クソ”の中にいるわけではなかった。それならそれで、ジャガイモを収穫できた時点で種イモとバクテリアの増えた土を冷蔵庫にしまっておけよと思わずにはいられない。