説得しようとしているのは議論の相手ではない

togetter の「【まだまだ】『議論』『ディベート』に代わるネットバトルの名称について【募集中】」に興味深い発言があった*1

@gyaooo ご質問ありがとうございます。ディベートは基本的に第三者を説得するもので、しかも、根拠に基づいて議論するもので、立場は機械的に割り当てられるもので訓練方法です。
http://twitter.com/ttakimoto/status/19996376872

わが意を得たり。

“事実”というのは客観的なものであり、議論する誰もが合意できるものでなければならない。もちろん、どれだけ正確な事実を示すことができるのかは論者にとって重要だが、それは“議論の前提”である。たとえば「規制緩和のせいで個人の能力差がそのまま貧富の差に直結している」ということを事実を仮定すると*2、「貧富の差をなくす施策が必要だ」とか「能力差が拡大するのは当然」といった意見があるだろう。事実認識が一致した上で確固たる意見を持っているなら、どれだけ声高に“異なる意見”を述べたところで、それを変えることは至難の業だろう。

三者は違う。議論を見ていて、どちらの方が説得力がある意見か、自分はどう考えるべきかを判断できる。それは事実の描写についても同じだ。だから「誰それと議論しても説得できる余地がないから無駄だ」とは私は思わない。それは相手が“話せばわかってくれるはず”と思っているからではない。その議論は第三者が見ていると思うからだ。

*1:議論のそのものはほとんど見ていないのだが。

*2:ほんとうにそうかどうかは、ここでは議論しない。