本当は怖い裁判員制度

十二人の怒れる男

十二人の怒れる男 [DVD]』という映画がある。名作だし、いまさらネタバレを恐れるものではないと思うが、一応注記しておく→【以下、ネタバレ】

この映画は、ある少年の裁判に関する12人の陪審員が議論する(だけの)地味な内容だ。ほとんどの陪審員が有罪を確信する中、ヘンリー・フォンダ演じる第8陪審員が1人だけ反対する。彼も無罪を確信しているわけではないが、議論を進めていくうちに、やがて全員が無罪を確信するに至る。

一見すると、陪審員によって少年の無実が晴れるという「陪審員制度の素晴らしさ」を描いたように感じられるかもしれない*1。だが、第8陪審員がいなければアッという間に無実の少年は有罪と判断されていたのだ。映画を見るとわかるが、第8陪審員も最初から無罪を確信していたわけではない。「有罪(=死刑)なら少しぐらい時間をかけて議論すべき」と提案するだけだ。それも、強硬な姿勢ではなかった。たまたま、少年は運が良かっただけだ*2

問題はどこにあるのか

十二人の怒れる男』で、なぜ皆が無罪を確信したかと言えば、裁判中に取り上げられなかった小さな矛盾点が明らかになったからだ。それは本来被疑者の弁護人が取り上げるべきことだったはずだ。「問題は(裁判員が議論する)会議室で起きてるんじゃない」のだ。日本の司法の問題として取り上げられる「密室での取調べ」といった問題は、裁判員制度では何も解決しない。

素人目に見ても「それはおかしいだろう」という裁判はたしかにある。ただ、そういうものでも判決文を読むとそれなりに筋の通った話になっていたりする。強要した自白だろうと、捏造した証拠だろうと、そういった背景の問題は判決文には出てこない。裁判員制度でも「公判前整理手続」によって、裁判員に判断をゆだねる前に証拠が“整理”されてしまっていたら、裁判員は正しい判断を下せないかもしれない。

また、今は公判を維持できる前提で起訴されているようだが、どんどん無罪判決が出るようになったらどうだろう。そうなれば、検察は無罪判決を恐れる必要はなくなる。松本サリン事件のようなケースでも、「とりあえず起訴しておこう」と河野義行さんが起訴されていたかもしれない。メディアがこぞって有罪前提のような報道をする中で、正しい判断が下されただろうか。

裁判制度の「モト」を正すには取調べの可視化や弁護士の立会いといった施策であり*3、そこをせずに裁判員制度を導入したところで、より公正な裁判になるとは思えない。そして、そうした施策を取れば、コストをかけて裁判員制度を導入する必要はなくなるのではないだろうか。

裁判員の負担

何しろ普通の市民なのだから、裁判に慣れているわけでもない。そもそも日本人は議論に慣れていないとすら言われている。「「正直怖くなった」「どうしていいか分からなかった」 少年死刑判決で裁判員会見」といった記事を見ても、突然、非常に重い判断を要求される市民の苦悩がうかがい知れる。

そもそも裁判員に量刑まで判断させるようになったのだろう。アメリカの陪審員制度は量刑までは判断しないはずだ*4。全員一致制を取っていないのは、たとえば裁判員の中に一人でも死刑制度の反対者がいたら、(死刑制度があるのに)死刑を回避できるという状況になるためなのだろうが、無罪とか過失とか故意といった犯罪を認定するだけの制度であれば、もう少し裁判員の負担も軽くなると思うのだが。

「国民に裁判を身近に感じてもらおう」と言っても、裁判員守秘義務があるから裁判の経験を触れて回るわけにもいかないし、裁判員に選ばれない人は今までと変わりないだろう。本当に多額のコストをかけて裁判員制度を維持する必要があるのだろうか。

*1:第8陪審員は、「アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100」の28位にランクインしているヒーローでもある。

*2:父親を殺された上に、無実の罪に問われた上にという点を除けば。

*3:なんで民主党はとっととやらないの?

*4:民事裁判では賠償金の額を決めることはあるが、日本の裁判員は刑事裁判のみ。