九九と日本語


先日の「「3×5」と「5×3」問題」に対して、はてブでいくつかコメントをいただいたので、それらに答えてみる。

議論の余地

「3×4の式から,「プリンが3個ずつ入ったパックが4パックあります。プリンは全部で幾つありますか。」というような問題をつくることができる」。XXすることができると、XXしなければならないはまったくの別物。
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学習指導要領に「しなければならない」と書いてあったら、そもそも先生の“教え方”の議論にはならないだろう*1。前エントリの注釈に書いた通り、私も“議論の余地がない”とまでは言わないし、実際古くからある議論ではある。ただ、日本語としては、「××する」と書いてあり、その他の選択肢が書いてなければ、「××する」以外の選択肢は含まない*2

エントリに直接コメントもいただいたが、△にすることで「なぜ○でなく×でもなく△なのかを指導する機会が生まれる」こともあるだろうし、そこは児童のようすや、先生の考え方にも違いはあるだろう。「○にしない」先生は多いのではないかと推察するが*3、前エントリの例で言えば、「しょうとくたいし」を○にする先生も、△にする先生も、×にする先生もいるだろうとは思う。

対象者

3を比率とは捉えずに塊として捉える人ばかりか…。「1皿あたり3個」を「5皿あたり15個」にしたら議論をどう整え直すんだろうなあ。
b:id:imo758:20101119

指導要領が示しているのは「第2学年」である。相手が(日本の)小学2年生であるから「立式」に得点を与えるテストが意味を持つ。この頃に「5皿あたり15個」という問題は出ない。それこそ中学生にでもなれば「証明」に得点は与えられるかもしれないが、「立式」に点は与えられないだろう。

英語圏の例

「乗数と被乗数のどちらを先に書くかに普遍的なルールは存在しない」。現に、英語圏では(×にする人達の主張とは)逆順だし。式の意味が文化により違ったら数式という抽象化の意味がない、と個人的に思う。
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英語圏を例示しての反論は、日本の小学生を相手にした問題点の指摘にならない。

これは金田一春彦氏の受け売りなのだが、日本語は十進法の数を読みやすくできている。1桁どうしの足し算で繰り上がったら「じゅういくつ」になると覚えておけばよい。これの応用で何桁でも足し算ができる。英語ではそうはいかない。「ワン、ツー、スリー…」と数えていって、「テン」の次は「テンワン」ではなく「イレブン、トゥェルブ…」と続き*4、さらに「テンスリー」「テンフォー」でもなく「サーティーン、フォーティーン」と続く。20が「ツーテン」だったらわかりやすいだろうが「トゥエンティー」だ。

日本では1桁の掛け算を教えるのに「九九」を使う。1桁どうしの掛け算は1桁か2桁であり、数文字のゴロのよい言葉を使って「ににんがし」「にさんがろく」…「くくはちじゅういち」と丸暗記する。英語だと、この丸暗記が足し算で必要になるのだ。

さらに追加すると、

フランス語の数の数え方は大変難しい。60は「スワザント」という。70は「スワザントデイス」という。「デイス」は10という意 味で、70という代わりに60足す10というのである。72は「スワザントドウーズ」と言って、60足す12のこと。ところが80は「カートウルバン」と言って、これは4かける20ということである。

だから日本人だったら、80から72を引くとすぐに8と出てくるが、フランス人はなかなか出てこない。4かける20から60足す12を引くのだから頭の中は大変だろう。

インド語では1から100まで単語がバラバラで、93まで教わっても94を何というか教わらなければいえない。

だそうだ*5

1桁の掛け算を教えるのに、国際的に普遍的なルールがあるわけではない。だが、幸いにして日本語には九九があり、それを教えている*6。指導要領も小学生に日本語で教えることを前提に書かれている。

問題文

まあ可換がどうというのは問題外。5を「掛けられる数」と捉える事ができる問題文が良くない。「お皿5枚に全部でリンゴは何個乗せられるでしょう?なお、一枚につき3個乗せられます。」だったら揉めないと思う。
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揉めると思う:-)

掛け算の可換性

掛け算は考え方的に可換しちゃだめ、といいつつ、「3+3+3+3+3」という考えに”可換”しなければ、その理由が説明が出来ないというパラドックスを、きちんと説明して欲しいね。
b:id:Mu_KuP:20101120

これは×派、○派の分かれ目かもしれない。×派は「可換でない」とは言っておらず(当たり前)、「立式として適切ではない」と言っているのだ。むしろ、掛け算の可換性は教えるのだし、間違いなく入れ替えても正しい答えは出る。「入れ替えても同じ答えが出るのになぜ×にするのか」「小学生の“考える力”を奪うのではないか」という指摘は当然ありえる。正直、これが「詰め込み型の教育」であると言われたら、否定できないかもしれない。

だが、子供の頃に色々詰め込んでおくことは重要なことでもある。むしろ子供であればあるほどさまざまな情報を詰め込めるようになっている。そして、成長するにつれ“考える”比率が高くなる*7。詰め込みは、考える力を持つための基礎体力みたいなものだ。1桁の掛け算のために九九を詰め込んでおき、それを元に長い桁の計算をする。「インド式計算法」なるものが取り上げられることがあるけれど、それが必要な理由は「インド語では1から100まで単語がバラバラ」であることと無縁ではないだろう。日本人にとっては、色々な計算パターンを覚える必要はあまりないのだ。

小学2年生というのは、クラスの中でも成長の違いが顕著な時期だろう*8。前エントリに書いたとおり、子供が「わかって(考えて)書いている」かどうかで○か×かを変えるわけにもいかない。そこに「議論の余地はある」けれど、「×にするのは誤り」などと“断言”できるようなものではないのだ。

*1:指導要領に対する議論は生じるかもしれない。

*2:このように議論されるくらいだから、たとえば「…というような問題をつくることができる。」に続いて「これは4×3にもあてはまる。」と加筆すれば議論の余地はなくなるのに、実際にはそうなっていない。

*3:この手の話を現場の先生としているわけではない。

*4:十二進法の名残りとも言える。

*5:『日本語(上)』(金田一春彦著)より。

*6:「5×3」を×にして立式として適切でないと教えることの是非に議論の余地があるとしても。

*7:日本語(母国語)は考えずに口に出すことができても、子供の頃に使っていなかった外国語は考えないと喋れない、というようなものだ。

*8:2年生に進級した時点では7歳になったばかりの子と、8歳直前の子供がいるのだ。