嫌なら止めればいい?
役に立つ経済学
経済学者の中に役に立たない話をする人がいることは、経済学が役に立たないこととは違う。「共有地の悲劇」の典型的な例であるタクシー自由化が招いた現状は、まさに経済学の法則を無視した施策に他ならない。深夜のタクシー乗り場を見て、この問題を自由化の“成果”だという人がいたら、その人の目は節穴以下の何物でもない(いい加減、気付けよ)。これが、たとえば豊川博圭氏が「新しい道路運送法の需給調整スキーム案」という提案にあるような、「競争の生じるところで自由化し、競争の生じないところでは規制を働かせる」という“経済学的に正しい方法”をとっていれば、現状は大幅に改善することだろう。
「嫌なら止めればいい」という傲慢
昨日のエントリに対して、すがりさん*1から次のようなコメントをいただいた。
本当にひどい話です。
でも、レコード会社も新譜発売1年後はレンタル禁止できるはずなのに禁止しないし、作詞家作曲家も貸与権をJASRACに信託しなければいいのになぜかそうしないんですよね。気が付いていないんでしょうか?教えてあげてはいかがですか :−P
そこは、このエントリの注釈として書き加えようか迷って、シンプルさを維持するためにグッとこらえた点なのだ。
「嫌ならレンタルさせなければいいだけだ」という意見はたしかにある。「タクシーの賃金・台数規制を撤廃しろ。各社が営業したい料金と台数を供給すればいいだけだ」「最低賃金規制を撤廃しろ。安い賃金が嫌なら、そこで働かなければいいだけだ」「映画を録画されるのが嫌なら、テレビ放送させなければいい」などなど。だが、「ルールの参加者がいることは、必ずしもルールが正当であることを意味しない」のだ。
今は不景気である。最低賃金がなければ、より安い賃金で仕事を得ようとする人が出てくるし、それに乗じて企業はより安い賃金で働かせようとする。嫌なら安い賃金で働かなければいいといっても、それを嫌がっていると収入を得る手段が途絶えてしまうのだから、安値競争に参加せざるを得ない。もちろん、そういう人ばかりではない。世の中には高い値段を払ってでも働いてもらいたい人はいる。そういう人は「安値競争に参加しなければいい」と安直に考えてしまうこともあるだろう。だが、「すべての人がそうではない」のが現実の社会だ。満足な選択肢のない人たちを安値競争にさらしても問題ないと言い切るのだろうか。「労働者が安値競争に参加するのは彼らの選択であり、だから最低賃金など必要ない」と言えるのだろうか。
タクシーの自由化もそうだ。「嫌なら出ていけ」と言われて出ていけない人たちがいる。いや、むしろ出ていく技量のない人たちが残り、優秀な人たちを退出させることになるだろう。タクシーを自由化したことは、タクシーの事故が増加*2したことと無関係とは思えない。
「CDレンタルが嫌ならレンタルさせなければいい話で、レンタルさせているのはレンタルに賛同している証拠だ」という人もいる*3。だが、そういう人も組織が集まって「業界全体でCDレンタルをやめよう」という協定を結んでもよいとは言わないだろう*4。労働者だって、最低賃金が設定されていなくても、全員で徒党を組み「この賃金以下で働くのをやめよう」と言えれば問題はない。だが、そのような徒党を組むことは現実的ではなく、抜け駆けをする人が出てくるだろう。そして、それを防ぐことが公的に設定される最低賃金制度である。最低賃金を撤廃して安値で働こうとする人がいたとしても、それをもって「最低賃金撤廃がなくてよい証拠だ」というのは、あまりにおこがましいのではないか。
音楽業界はレンタルCDを喜んでいるか
音楽業界は、レンタルCDを販促効果がある施策だと思って喜んでいるのだろうか。私は、はなはだ疑問に思っている。もし販促効果があると思っているなら、なぜ洋楽CDを規制期間が過ぎるまでレンタルしないのだろう。なぜ、他国にレンタルCDを持ち込まないのだろう。DVDレンタルとCDレンタルを同一視する人は、“フェアユース”のあるアメリカでDVDレンタルが存在し、CDレンタルが存在しない理由をどう考えているのだろうか*5。
レコードをテープに録音している時代には、何度も借りられるレコードが擦り切れていくし、録音物の音質も満足なものではなかった。レコードがCDに変わった時ですら、デジタル複製は容易なものではなかった。だが、今やCDはリッピング元でしかなく、借りても買っても同じ音質で楽しむことができる。今や、CDレンタルは音源を実質的に返却しない「ユニークなレンタル業」なのである。